先日 送ってくださいました
可愛い表紙の【お元気ですか 69号】
手にとった瞬間から
いつも最初のページをめくる時
今度はどんな宝物が飛び出してくるかと
わくわくしてしまいます。
中を広げ
夢中になって読ませていただきました
その中に
もう一度 繰り返して読まずにはいられない投稿が
ありました。
皆様にも 読んでいただけたら
と思い
こちらに掲載をお願いいたしました。
許可をいただけましたので
読んでいただけたら
私も嬉しいです。
長文ですのと
(ご本人様も 二つに分けていらっしゃるので…)
今日と明日
二回に分けて投稿させていただきます。
※※※
【とある昔話】
大阪府 出井律
年寄りの昔話です。
些少の食い違いがありましょうが、ほぼ事実である事そ して関係者がご存命の可能性があることを、まず頭に置いて読み進めて下さい。
私の母が子供の頃、同じ小学校に通 う年上の男の子がいました。
男の子の実 家は街の大通りが十時に交差した角にあり、三階建ての鉄筋コンクリートの蒲 洒な建物で、そこでご両親がお店を営んでいました。人も車も多い大通り交差 点の角という立地条件の良さもあって、お商売は結構繁盛していたものとみら れます。
当時私の母とは住んでいる街区が離れていましたが、昔のことですから公園など皆無、遊び場所と言えば学校かお寺の境内くらいしか無かったので、 年長年少関係なく皆集まっては一緒に遊んでいたそうです。
話によると中でも その男の子は友達や年下の子にも慕われる面倒見のよい子だつたようです。
時は進んで太平洋戦争さなか、その子も成長してとうとう赤紙の召集令状が届きました。つまり兵役に就かなければならなかったのですが、海外へ出征ことはなくてずらと呉の海軍基地に居たそうです。
ある日突然命令が下りました。
「長崎がアメリカの爆弾で甚大な被害が出た。応援に行くように」
との こ とで した。
長崎の街は壊滅していました。
中心部の大通りは道の端から端まで埋め尽く す遺体の山又山。一歩足を踏み出すにも誰かの遺体を踏まないと先へ進めませ ん。そのご遺体も一体としてまともでは無く…真っ黒焦げの遺体、爆風で眼球 が飛び出て無くなっている遺体、お腹が裂けて内臓が飛び出ているご遺体、そのようなご遺体が日の前にごろごろと転がっているのです。軍の命令というの は「これら遺体を全て火葬場まで運ぶこと」でした。
さて、それからが大変でした。
以下ご本人が後に実際に語られた事を記しま す。
特にカギ括弧 「」は実際にその通 り仰ったそ うです。
ま ず 二 人 一 組 に な っ て ご 遺 体 を ま っ す ぐ 「延 べ 板 の よ う に 」 伸 ば し ま す 。
それからトラックに「頭と足と互い違いに」「まるで資材のように」乗せて行き ます。
そしてトラックの荷台が一杯になったら火葬場へ運びます。
それを来る日も来る日も延々と続けたそ うです。
長崎は狭い路地と坂道の街、トラックは大通りには入れてもその先の路地や 坂道には入っていけません。
仕方なく路地や坂道に溢れているご遺体は「一体 一 体 お ん ぶ し て 」大 通 り ま で 運 び 、大 通 り に 着 い た ら 又 二 人 一 組 で ご 遺 体 を 「 延 べ 板 の よ う に 伸 ば し 」「 頭 と 足 と 互 い 違 い に 乗 せ て い き 」「 そ の 方 が 大 勢 乗 せ ら れる!」 「荷台が一杯になったら火葬場へ運ぶ」を繰り返したそうです。
そのような日々もやっと終わり復員、無事故郷へ戻つてこられました。
そし てご両親の代わりに実家を継ぎ店主としてお商売をはじめました。
やがてお嫁 さんをもらって子宝にも恵まれ「ああ、これでやっと穏やかな毎日が過ごせるよ うに な る 」 と思 っ た 矢 先 ご主人が体調を崩 しました。
直ぐに大学病院に入院されたそうですが、手厚い治療も虚しく、あっという間にお亡くなりになったそうです。
病名は急性骨髄性白血病。
原因は「長崎の原子爆弾投下直後入市による被爆」でした。
あとにはまだ年若い奥様と頑是無いお子様そしてご主人の年老いたお母様が 遺されました。
続く。
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