傾山分校

日記

 

毎日

絵の事

身の回りの出来事を

書いています。

 

見えない

あなたに

 

読んで

いただける事が嬉しくて

今朝も書いています。

 

 

 

わたしは

大分県 祖母傾国定公園

その

傾山の中腹で 生まれました。

 

 

当時

父は 営林署に勤めていて

ただ 大学を出ている

と いうだけの 理由で

その 傾山分校の代用教員??

をしていたのです。

母も一緒に。

 

山には
どれ位の人が住んでいたのでしょうか、、、
ひとつの部落ができる位

 

山の中にも
お店が 一軒あって

ラムネなんかが 売ってありました。

お店の外に積んであった

中のビー玉が きれいで 欲しくて

ラムネの 瓶を 割って

たいそう怒られた事がありました。

 

山には
たくさんの 木こりさんの 家族が

住んでいました。

父と母は
その 木こりさんの 子供達を 教えていました。

 

わたしは まだ 小学校に上がる前から
お兄さんお姉さんと 一緒に
教室で
机を もらって
一緒にお勉強させてもらったり
遊んでもらったりしていました。

 

家は
その分校の

小さな グランドの横にあり

家の横にはニワトリ小屋や 兎小屋も
あったように 記憶しています。

 

当時の日本は
戦後復興 と いう事で
国の いたる所、スギや ヒノキなど
どんどん伐採しては  家を建てておりました。

 

傾山も そんな 木を切り出す 山の ひとつでした。

 

大分県の三重町:(閉校当時清川村立)
南小学校(のち三重町立久部小学校)傾山分校

 

とても懐かしく もう一度 訪ねたいと思い

 

今から35年位前に、
6歳のかすかな記憶をたぐりよせながら

たずねて

行きました。

 

トロッコの軌道跡をたどると

きっと

間違いはないだろう、、と

 

下に落ち込んだ 川

遠くの 山には 滝が見えます。

あー、この景色。

このにおい。

覚えてる。

 

そして

小さな川があり、

子供の頃は

体が小さかったので

大きな川のように思っていました

 

実際は

こんな だったんだ。

 

 

 

分校は右手にあった はず。

着くと

校舎は

きれいに なくなっておりました。

 

当たり前でしょう、、

随分昔のことですもの

 

でも 校舎の

土台

石垣は ありました。

 

飲み水を溜めてた コンクリのタンクは

なくなっていましたが

引き込み口はそのままで・・

 

 

ほんの少しですが

当時の

水がチョロチョロ出ていて

あーっ、と

懐かしく思いました。

 

運動場には

一面 ずらっと

並んだように

杉の木がきれいに植えられて、、

それが 大きく育ってあり

知っている人でないと

運動場とは 解かりにくいかな~?
と いう かんじ

 

 

 

 

 

それから
数年が たちました。

 

もう一度訪ねたくて
妹と二人で

、、妹はここを知りません、まだ 生まれていなかったから、、

私に付き合ってくれました、、

(多分 傾山の官行コースの方から行ったら行けるのな~??)
と思い
行きましたが

 

途中
道が壊れていて・・・
地元の人に聞くと車が通れないと言われ

麓をうろうろ歩いただけで帰ってきました。

 

(数年してから、案内して 下さる人に巡り合い 行けました。)

 

 

ジェットコースターのように、
遠くの断崖の滝を眺めながら

スリル満点のトロッコに乗って

ブレーキをかけながら

シューッ  と
山から麓の村まで下っていた

夢のような生活

 

川では

落ち込んだように 高い滝壺に飛び込んで

泳いでいました。

(リフレでの プール飛び込みが 大好きだったのは

どーも この時の 楽しさから きているのかなー。)

 

雨あがりの後
うちの裏の  すぐ下の斜面下ると

椎茸の駒を打った訳でもないのに、、

倒れた木に

椎茸が勝手に 生えてて・・

カゴをもって 採りに行ってた事

 

木こりさん達は

よく キジ等

鉄砲で打っては

 

「せんせーい」

持ってきてくれていました。

 

野イチゴも 木いちごも周りに沢山、、

お弁当持って 川のそばの石の上で食べて

帰りには

そのお弁当箱いっぱいに摘んで 帰りました。

校舎での学芸会 運動会 今でも懐かしく思い出されます。

 

この 年になっても
まだ

もういちど

もういちど

 

訪ねて行きたい気持ちなんです。

 

 

 

 

コメント

  1. 瑠美子 より:

    傾山なんて読むのでしょう。
    けいやまで検索
    かたむきやまでした。

    かたむきやまという読み方をちょっと面白がりました。
    グーグルマップで調べてみました。
    なるほど山がいっぱい。

    このお話はチコさんの小冊子で読ませていただきました。
    何処だったかは覚えてなく大分県だったのですね。

    山の幸に恵まれた楽しい生活。
    今ごろは野イチゴ、木苺の季節ですね。
    秋のキノコ採り大好き。
    私も父が狩猟期間に撃ってきた雉や山鳥を食べました。
    (これけっこう自慢です。色々な鳥を食べました。可哀そうとは思わず美味しかった。)

    • baba より:

      瑠美子さん、そうですね。ミクシーで書かせていただきました。
      覚えてくださって 嬉しい。
      子供の 私には楽しい幸せな生活でした。
      父と母には 生活が大変だったかも知れません。

      びっくり お父様が狩猟を なさって いたのですか?
      かっこ いいな〜〜。
      私もついていきたい。

      私もかわいそうとは 思いませんでした。
      飼っていた ニワトリも
      お母さんぽっぽちゃん いつ食べる?

      私は 聞いたそうで

      母は
      この子は、、、

      びっくりした。と言っていました。

  2. 瑠美子 より:

    追伸
    グーグルでで検索したらチコさんの傾山分校らしきところが
    でてきました。
    傾山は他にもありました。

    • baba より:

      瑠美子さん。
      そんな事考えてもみませんでした。
      観れますか?
      ちょっと 挑戦してみます。
      ありがとうございます。

  3. 鯰越溢弘 より:

    白山小学校傾山分校の記事、懐かしく、読みました。
    当時、運動会で白山小学校に行ったときに、官山の山猿とからかわれたのを覚えています。
    きっと、悔しかったのでしょう。大学の時に、既に廃校になった傾山分校に行ったことがあります。石垣の他は、跡形もなく、運動場のあった場所がここだったかと推測できるだけでした。

    • baba より:

      鯰越溢弘 様

      あーー そうだったのですか
      官山の山猿 って 
      勉強もだけど、、かけっこも速かったから、、
      羨ましくて
      周りから言われていたのでしょう〜
      知りませんでした。

      大学の時にいらっしゃったのですか
      私はそれより18年後ぐらい後に行きましたので
      運動場には 杉の木が一面に
      見上げる様に 大きく育っておりました。
      次に行った時は それは伐採されてて
      運動場跡が 分かりやすかったです。
      あの場所を 
      自分の他にも 覚えていらっしゃる方が
      いらっしゃると 思うと とても嬉しく思います。

      コメントを ありがとうございました。

  4. 鯰越溢弘 より:

    思い出を共有できる人が元気に活躍されている人がいるというのは、人生の宝物だと思います。これからも文通が続くとよいですね。

    • baba より:

      鯰越溢弘 様

      活躍。。なんて していません
      元気 
      ではいます。

      ほんとに 今でも信じられません
      あの場所 あの時間は
      今の私を育ててくれた 根幹のように思われてなりません
      これからも どうぞよろしくお願いいたします。

      ーーー

      友達から 言われそうです
      【ほら いつひろちゃんから 連絡が来たじゃない⤴︎】

  5. 鯰越溢弘 より:

    私にとっても、傾山分校は人生の原点だった気がします。自己紹介では、自分は、人間の数より猿の数が多い山の中で生まれたと良く言っています。自然児として育ったことが誇りに思えます。だからこそ、研究者になっても通説に反した突飛とも思える学説を大胆に提唱できたのかとも思います。しかし、「私人訴追主義」の研究は、検察審査会の改革ー起訴強制制度の創設、「陪審制度」の研究は、裁判員裁判制度に、不十分ながら反映されました。お昼ご飯を食べた校舎の横の小川はまだあるのでしょうか。すべてが、懐かしく浮かんできます。

    • baba より:

      鯰越溢弘 様

      「私人訴追主義」
      検察審査会の改革ー起訴強制制度の創設
      「陪審制度」
      裁判員裁判制度

      ニュースで耳にする言葉
      私にはちんぷんかんぷんですが
      なんだか 
      とてつもなく大変な研究と思うのです。
      そんな件に 携わっていらっしゃるなんて
      やっぱり
      凄い人になっていらっしゃるんだろうなぁ〜
      と 思います。

      ここまで生きて
      せっかくですから
      人様のお役にたてる事は
      どんなにか
      素晴らしい事と思うのです
      人間より 猿の数が多い傾山
      猿にも育ててもらったようなもんです。

      ーーーー

      お昼ご飯を食べた 小川の件でしたら
      お答え出来ます!⬇︎

      【水は 殆ど流れてはいませんでしたが 当時の 岩、小石などは
      少しだけゴロゴロしていて 
      ココだったのかな?と 思いました。

      こんなに 細い小さな川だったかな〜、、
      と 不思議に思う位の 小川になっておりました。
      自分の体も小さかったし
      経年で 土砂が流れてきて 細くなったのか
      そんな感じに 思いました。

      でも 橋があったのは覚えています。
      橋があったという事は
      ある程度の水量があったと思うのです。
      運動場に入る橋の手前 左手赤土の斜面に蛇がいて
      だれか大人の人が退治していたのを覚えています。
      やっぱり あの川は 段々細くなり
      無くなったように思います。】

      • 二宮あきこ より:

        初めまして いつひろの妹です 二人が連絡取れて 私の方が 興奮しています 兄が絵が上手いとは 70さいの今まで知りませんでした 私は絵がすきで 見させていただき ただただ 感動しています これからも楽しみに 絵を拝見させていただきます おもしろい色の使い方 参考にさせていただきます 

        • baba より:

          二宮あきこ さま

          あきこ様の おかげです
          私を見つけて下さって 
          昨日 コメント欄に お兄さんの お名前を見つけた時
          ええっ! 
          ほんとだろうか
          と 
          暫く きつねにつままれた 状態でした。

          何度も お名前を見て
          コメントを 読みかえし
          やっと 
          ほんとなんだ と
          理解できました。

          きっと お兄さんは 
          執念深く覚えている私に 驚かれた事でしょう〜
          絵も 上手でした
          きっと 今でも と 思うのです
          ご立派になられて
          私は とても自慢で嬉しいです。

          こんな機会を与えてくださった
          あきこ様に 感謝しております
          ありがとうございました。

          これからも どうぞよろしくお願いいたします。

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