先日、五葉岳をコピペさせて頂いた方の 写真の中に
アケボノツツジの 向こうに 傾山(頂上が傾いている)
の 写ってる写真もありました。
以前のブログに 書かせていただきましたが
その 傾山中腹に 小さい頃は 住んでいました。
傾山分校には
父母の 他に
こんな 先生方が いらっしゃいました。
(昭和26、7年位?)
写真が切り取られていますが
誰が写っていたのでしょうか
知りません。
前の子供は私です(3才?位)
隣の 女先生(せいけ先生)
優しい先生で
いつも くっついていました。
校舎の端っこが
左側に見えています。
(屋根は 杉皮で 葺いてあり、
入り口には 合図の鐘が下がっていました)
写ってはいませんが 自宅はこの 右側の方に
あり (鶏小屋、兎小屋もあり)
写真の前は運動場が 広がっていました。
(広がっていたと いっても
以前 トロッコの軌道跡を たどって
その分校跡を探しに行くと
狭い狭い 運動場でした…
子供には 広く見えていたのです)
分校では
勉強している お兄さんお姉さんの教室に
お邪魔しては
一緒に遊んでいただきました。
コメント
例えば、みんなで会ってみよう、なんてイベントはどうでしょう?
みんなで会えたらすごいですよね。
えいしんさま。
はじめまして、コメントを下さって有難うございました。
みんなで 会えたら どんなにか嬉しいだろうな〜…
と 思います。
こんばんは。
当方、木浦すみつけ祭り保存会の事務局です。
分校あとには2回ほど行かせて頂きました。
将来に渡って、残すべきものです。
佐藤英伸さま。
【すみつけ祭り】テレビで 見せていただいた事があります。
とても 楽しそうです。
お世話なさるのは 大変な事と思います。
やっぱり みなさんが喜んでくださるから…と いう
おもいで なさっていらっしゃるのでしょう
分校跡地に いらして下さったのですか
びっくりしました。
残せるものなら やっぱり残してほしい場所です。
最後に 行ったのは もう随分昔なので
もう どんなふうになっているのでしょう
水を引いて ためてあったタンクは無くなっていましたが
同じ場所に
引いてあった 水が
少しではありましたが ちょろちょろ出ていました。
あそこを ご存知の方が いらっしゃるのかと
思うと
とても 嬉しく思います。
コメントを下さって ありがとうございました。
はじめまして
傾山分校の写真を見て連絡を差しあげました。傾山官行事業所跡・木浦小学校傾山分校跡には
山登りや集落の調査で訪れています。随分前沢登りの時事業所跡で分校の表札を見つけて持ち帰り保管していたのですが数年前木浦の民宿梅路に預けました。記憶という名の文化遺産が急速に失われつつある今 旧宇目町で聞き取り調査をしながら記録をしています。紙にして残しておけば後世の方が読んでくれるとの思いで歩いています。
数年前全国の廃村・分校跡を調査している浅原昭生氏を分校跡に案内しました。その時の様子を本に書かれています。「日本廃村百選 ムラはどうなったのか 著 浅原昭生 秋田文化出版」ご紹介します。こんごともよろしくお願いします。
また私のブログ「宇目郷温故知新録」(アメーバ)にも書いてあります。
戸高厚司さま
初めまして、、
コメントが嬉しくて たまりません。
たくさん 書きたい事が あります
いま 出る前で 時間がありません
帰ってから もう一度 お返事 書かせてください
ありがとうございます!
戸高様、コメントを ありがとうございました。
あの 場所を ご存知の方がいらっしゃる
と 思うだけで 胸が いっぱいになります。
実は 去年の暮れ
竹田市に 行く事があったので
もう一度
最後に 目に焼き付けておこうと
夫に頼み
確か 鍾乳洞のずっと先に、、、あったと 思ったので
車で 行ってみました。
官行コース の 登山口 だったような気がして
途中で 車を止めて
少し歩きましたが
なんだか 自分が 以前見た風景と
違ってるような 感じで
杉や檜の木立が多くて、、
時間も 夕方近くだったのもあり
諦めて 帰りました。
前回行った時から もう15年か20年近く経っていたので
変わっていても仕方ないのかな
と 思ったり、、
もっと 歩けば 見つかった
かも
とか 考えたりもしました。
傾山分校時代は
私にとって
ほんとに 今も 考えると
夢のような 世界でした。
ですから 戸高様からの コメントが
とてもありがたくて たまりませんでした。
早速
【宇目郷温故知新録】
拝見させて いただきました。
分校跡の写真 とても懐かしい!
そうです 左手に お水の出る タンクがありました
母が 時々 水色で着色した脱脂粉乳を
その タンクで 冷やし
牛乳のような飲み物を作ってくれていました。
(今 考えると 水色が ちょっと 気持ち悪いけど)
石垣の上に 校舎が ありました。
石垣も 草も 愛おしく しばらく じっと 見せて いただきました。
今日は
あーー、 ブログを書いていて ほんとに 良かった
こんな事が あるなんて
早速
浅原昭生様の 【日本廃村百選 ムラは どうなったのか】
を 注文します。
有難う ございました。
母のアルバムに
分校の写真(石垣と校舎の一部 下の部分)を見つけました
明日 ブログに 掲載しますので
よろしかったら
見て いただけると 嬉しいです。
ありがとうございます。私の父が教員で昭和33年 小野市小学校真弓分校に赴任しました。なぜか私も連れてゆかれ父と二人灯油ランプの灯る教員宿舎で2年暮らしました。その時傾山分校のことを聞いた覚えがあります。
安藤裕康という先生をご存知ないでしょうか。先生の短歌に「右も左も山また山の分教場北極星見えぬと記す」「雪降りて人の通わぬうさぎ道三里歩めり分校に帰るため」この条件にあてはまる分校は傾山分校しかないとおもっています。
浅原氏の本を注文されたと書いてましたが大変申し訳ないことをした、必要な所をコピーして差しあげたら良かったのではと反省しています。
宇目町にあった小学校はひとつに統合され生徒数も少なく寂しくなりました。分校で暮らしたお話を聞かせていただければこんな嬉しいことはありません。
戸高様、ありがとうございます。
あーー、戸高様も そうだったのですか
安藤裕康というお名前の先生の事は
すみません 知らないのです。
私が 1年の 途中で2年に上がる前に
山を下りて 牧口という貯木場から竹田市の
営林署に 父の仕事が 変わりましたから
まだ小さくて
せいけ先生 という 女性の先生しか
お名前は 覚えていないのです。
あの 写真の中に もしかしたら
いらっしゃるのかも 知れません。
父 か 母が 今も生きていれば
詳しい事 聞きたかったです。
浅原様のご本は 傾山以外でも
とても 知りたいです。
読んでみたいし 手元に 置いておきたいと
思いました。
傾山の暮らしは
両親にとっては
とても不自由な生活でしたでしょうが
私にとっては 今も
考えると
天国のような 生活でしたから。